昭和49年07月01日 朝の御理解



 御理解 第65節
 「日柄方位は見るに及ばぬ。普請作事は、使い勝手の良いのが、良い家相じゃ。良い日柄というは、空に雲のない、ほんぞら温い、自分に都合のよい日が、よい日柄じゃ。いかに暦を見て天赦日じゃと言うても、雨風が強うては、今日は不祥のお天気じゃと言うではないか。日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。」

 百年も前にこういう御教えをなさったという。教祖様の言うなら後勇気と言う物に、ただただ恐れ入ってしまいますね。今でも迷信と言った様な事に、すぐそれは迷信だと一笑に附する様な人でも、矢張り日柄を言うたり方位を言うたり、家相を見たり致します。言うならば、人間の弱さというかもろさというか、そう言う物を私はさらけ出した様なのが、この日柄方位だと思うんです。いわゆる、普通で言う、家相が良いの悪いのと言った様な事を言う訳です。
 勿論それは人間が少しでも幸せに成りたいと言った様な願いが、そう云う事にまで及んで行くので御座いましょうけれども、信心を例えば頂いておりましても、それをすっきりと頂けれる様に成るまでには、矢張り時間が掛かります。それを云うならばそういう迷信的な事を、心に感じんで済むと言うまでには、中々時間が掛かると思うんです。そこで私は思うのに日のお照らしなさる日に良い悪いはないと思え。とこう仰る所を私共はそういう一つの観念に縛られたり、そう言う事も矢張りむげには出来ない弱さと言う物をです。お取次を頂いて、起きて来る事に良い悪いはないと思えと。
 良い悪いはないと思う。なら何かあるかというと、皆んなお取次を頂いて成す事ならば、良い事だと解かる信心を頂きたい。例えば是は日柄方位だって、又は生命判断だってそうですね。やっぱり一つの学問があるんですね。ちゃんと理屈があるんです。だからちょっと不幸せな事があったりすると、名前が悪いからだろうと言うて、わざわざ名前を変えに行く、変えてもらう。するとちゃんと名前を変えてやんなさる。
 そうでもしなければおられない人間の弱さと言う物が、そう言う風に成って来る。そこでお取次を頂いて起きて来る事に、例えば良い悪いはない、それはあるかもしれない。例えばそういう事実があるかもしれない。教祖様は大英断ですかね、これを断言しておられます。迷信と言うてありますけどね、ひょっとしたら有るかも解らん。ちゃんとそれで一派をなし、一家をなしている人があるんですからね。日柄方位やらだけでご飯を頂いとる人があります。また生命判断とか。
 又は名前の付け替えやら、そう言う事で商売をしている人がある位ですから、ないとも言えんと云う所も、やっぱりあるかも知れん。けれども、お取次を頂いてからの事ならば、良い悪いはないと思え、あるものはおかげだけだという頂き方です。そういう私は頂き方が出来る様に、いうならばお取次の働きを信ずると言う事、成程家は家相が悪いかもしれんけれども、お取次を頂いてお願いをさして頂いたから、悪いかもしれんのだけれども、それはお取次の働きによって良い事になった。
 おかげになったというその思い込みがね、出来て来るおかげを頂きたい。その思い込みがね、実はおかげになるのです。また事実それが本当なのですだから。昨日、大祓式が終りましてから、昨日は三十日ですから御祈念の後、御礼神話会が何時もの様に御座いました。その中で皆さんの本当に素晴らしいお話を、五、六人の方から頂きました。もう時間になりましたから、それで止めましたけれども、一人一人の発表される事が素晴らしかった。その中で私は話したんですけれども。
 昨日の大祓式が終ってからすぐ、具合が悪くなって倒れた方があった。それですぐ裏に休んで頂いて、すぐお届けに見えましたから、お願いをさせて頂いたんですけれども、間もなく回復されたんですけれど、その方に私は言うんです。今日はね大祓式だ。その大祓式に、いうならば私の不健康と言う物を祓うて頂いた。もう今年一年なもう病気はせんぞと神様は約束して下さった様なもんだ。お祓いを受けたんだお取り祓いを受けたんだ。そういう思い方が本当なんだ。
 お参りしとっとにどうしてこんな事があるじゃろうか、でなくてお参りして起きて来る事だから、おかげと頂けるまでには、充分やっぱり年期を入れなければ出来ないと言う事。大祓式の昼は私は親教会に、そして福岡に帰って夜は福岡の教会のお祓式にお参りさせて貰ました。帰らせて頂いたら確かに閉めておった表も裏も開かっとる。入って見た所が、色々家の中が乱れておる。
 そしてよく調べて見た所が、私も家内もそれから子供達も、それからその時分は店の方が三人ありましたが、三人の人達も洋服の上着だけを盗られた人、ズボンだけを盗られた人、とにかく一点ずつずらぁっと盗られとるんです。お参りしとる留守中に泥棒が入ったんでんなんてん。その時におかげ頂いたというのが、いうならば今日お祓いを受けて、一年中のそういう災難を祓うて頂こうと。そういうお取り祓いを頂いたという実感の方が強かった。もう早速お礼に出らせて頂いた。
 是は信心の稽古をさせて頂きよるとです。是はもう何時の間にか身に付いて来る。言わば当の事が身に付いて来る。しもうたと思うのではなくて、おかげを頂いたと思えるそのおかげ頂いたと思うその心がおかげを呼ぶのである。言うならば真に有難いと思う心がおかげを呼ぶ様に。ですからそれにはね私共がしっかりお取次を頂いて、良い悪いはないと思えあるものは有難いおかげだけだと言う様な体験を積んで行かなければならん。そして本当な事へ本当な事へと、お互いがおかげを蒙るって行かなければならん。
昨夜の発表の中に、安東のお父さんが発表しとられました。四、五、六とまあここ三ヶ月間を振り返って見て、本当にお神様を奉斎させて頂いたり、それから安東家の御霊様を、改式させて頂いたり、それこそ見事にお神様をお祀りなさいました。それでまあ夫婦の者が御祈念をするとが楽しいごとある。神様の前に座るのが有難い。一生懸命御祈念をさして頂いてです。段々最近気付かせて頂く事は。
 一生懸命こうやって拝みよるけれども、結局自分の事やら、自分の店自分の工場の事ばっかりを願いよる自分に気が付いた。あれ程教えを頂いておるのに、自分の信心の程度が本当に低いなと言う事を分かる様に成って来た。その分かる所から是ではいけないという信心が生まれて来る。四、五、六と段々おかげを受けられたその過程をお話しになっとりましたが、今月初めて、例えばそれこそああいうお仕事をなさる様になってから、初めて思う様な仕事が一ヶ月を締めくくって。
 出来たという体験を発表しとられました。四月よりも五月、五月よりも六月とです。いうならもうそれこそあなたのお話しを頂いておると、一月一月信心がごろっと上に上がって行きよんなさるとが分かるですね。と言うた事です。皆さんの信心はどうでしょうかね。そう言う風にです。信心が進んで行く内に今日私が申します、いわば良い悪いはないと思え、そしてあるのはおかげだけだと言う様なです。しかもお取次を頂いての事だからと確信出来れる、本当な事が身に付いて来る様になるのです。
 最後に久富繁雄さんが発表しておられました。もう本当に素晴らしいお話しの、皆さん上手になられたというか、表現の素晴らしいのに何時もの事ながら、繁雄さんのお話しを頂いて感心しました。もう何とも言えん私達の様ながつがつした話しじゃなくてですね、柔らかい表現も、それはとても素晴らしいお話しでした。短いお話しでしたけれども、その中にです、最近親先生の御用をさせて頂いて、すぐ眠気が付く。それを人からとやこう指摘されて言われた日から、心が重たくなって憂うつになった。
 本当にそうなんだけれども、分かっておるけれどもどうも仕様がない。まだ今日まで悩みが残っておるというのである。自分に気付かせて頂いておる、人からそれを指摘されたと、そこでまあいうならばどう言う事になるでしょうか。まあもやもやしたというか腹の立ったとか言う様な内容じゃないでしょうか。それは成程眠りながらでもそれこそ御用が出来ておる。そしてまあその事が私が心がこまいから、この位の事に毎日面白くない毎日を過ごしておるけれども、何とかね親先生の御用をさせてもらう。
 そばに行ったら眠かっても目がパチッと開く様なおかげは頂けんものだろうかと、毎日思うとりますと言う事を言われました。以前はそうだった。親先生のそばに寄るだけでも、それこそ眠かっても目がパチッと開く様にあった。所が段々おかげを頂いていく内にです。もう御用頂きに来て下さる様になって、それでも十五、六年になるでしょうか。最近は眠気がつくと言う事がです。どうした事だろうか、こういう言うならば有り難い御用をさせて頂いておりながら眠気が付く。
 そこにいうならば悩みを感ずる。皆さんもそうでしょう。有難いか有難くないか分からんけれども、言うならば有難い御理解を頂きながら、眠気がつくと言う事はどうした事だろうかと悩まれた事があるでしょうか。御神前に出たら、もうぐうぐう言うて寝て良かつのごと思うてから眠る事に悩みを、言うたら感じる人があるでしょうか。それでは信心は一つも進まないです。そこに様々な工夫がなされなければならないと思うのです。今日の御理解は、もうどう言う事かいっちょん解からんじゃった。
 眠り半分で聞いとった。そう言う事にです。それが当たり前になってしまわずにです。どうした事であろうかと、それに悩まれる信心を頂かにゃいかんのです。繁雄さんは初めて、自分でそれを薄々感じておられたのが、人から言われたから、それが一つの刺激になった。言うならばまな板の上で、言うならば捌かれとる様な気がする。いわば自分と言う物が試験台の上に乗ってと言う様に言うておられましたが、だからそれは良い気色はせん。けれども、確かに眠気が付く事だけは事実ならです。
 その親先生のそばに行ったら目がパチッと開く様なおかげが頂けなくなったのは、どうした事だろうかとなやんでおると言うところが素晴らしいと思うんです。信心というのはね、そこに信心のなやみと言う物があってこそ、信心は進むのです。もうそれは当たり前で、お互いの信心がマンネリ化する、そこから生き生きとしたものが無くなって来る。これはマンネリ化しよる証拠だと自分で悟らせてもろうて、そこに工夫をする、修業をすると言う事がです。
 私は信心が進んでいく、一段一段進んで行く、進んで行く内に何時とはなしにです。例えば、お取次を頂いて起きて来る事皆良い事だと確信が出来る。お取次を頂かずして起きて来る事が皆悪いと思い込ませてもらえる様になる。お取次を頂いて、例えば昔から言われる、日柄とか方位とか、そういう迷信と言えば迷信と思うけれども、自分の心に引っかかる。けれどもお取次を頂いてお願いをさせて頂いたらです。例えば良いもなければ悪いもないと言う様なです。心が生まれて来る。
 そしてあるものは、おかげだと言う様に頂ける様に、段々成って来る。何時も私はこの話をするんですけども、善導寺の親奥様です。所謂ばばしゃまです亡くなられた。御本部に月参りの時に一緒にお参りした事があった。もう二十何年も前の話です。親先生と私とばばしゃまと三人でお参りをした。もう出られる前に、新しく下ろされたばかりの下駄の緒がブッツリと切れた。その時にばばしゃまが、もうその時に言われた事はね「いや、おかげ頂いた。」と言う事が一番だった。
 「途中でどん切れるなら、裸足にならにゃんとこじゃった。」と言うて引き返して、また別の履物を履いて来られた。そういう時におかげ頂いたと、是はとても一年二年で出来る事ではないです。長年の、いうならば、迷信的な事を打破する。そういう信心が出来て、それが本当に取るに足らない迷信だ、言うなら、有り難いという前には何もないと言う風な物をです。理屈ではない、身に付けておられるから、そう言う事が思ったり言えたりするのです。ああ出がけに是は鼻緒がプッツリ切れた。
 ひょっとして行くとに何か災難でもあるのじゃなかろうか。と言う様な思い方をする所に、そういう思わぬ災難を呼ぶ事になって来るのであり、おかげを頂いたと言う所におかげを呼ぶのです。ですからそういう信心を身に付けて行くと言う事が、今日皆さんに聞いて頂いたのです。人間じゃから生身を持っとるから眠いときゃ眠るけど本当いうたら、御神前に拍手したらそれこそ物音も聞こえんごとならにゃいけん。
 後ろから槍で突かれても、振り向く事も出来ん程しの、真剣さを持って神様に向かわんならんと、教えられておるにも拘らず拍手を打って、下に手を着いた途端に眠気が来ると言う事は、どうした事だろうか有難いお話しを頂きながら、眠っておるとはどうした事だろうか。それが可笑しい証拠にはお話しが済む、御理解が済むとパチッと目が覚める。御祈念が済むとパチッと目が覚めた。
 もうどげん考えても可笑しいじゃないかと。そこにね私は悩めれる信心だと思うです。恐らく久富繁雄さんが今悩んどられる事がです。どうして親先生の傍に行ったらこんなに眠くなるだろうかと、反対に目がパチッと開かなければならない程しのおかげを頂いとるのにも係わらず、是はどうした事であろうか。こんな事だから人からとやこう言われるんだ。と例えばその事に悩んで、そこん所を、どうしてという信心をされて行く所からです。ああここだったと気付かれた時に。
 愈々親先生との間の中に有難いものも交流して来るだろう。傍に寄っただけでも、目がパチッと開く様になるおかげが頂けるそういう心を生きた心。昨日大祓式で申しました様にね。マンネリになっている時にはもう半死半生です。もう死んだも同じ事ですだから水滴が止まらない。死んだ者の体に水を掛けたっちゃ流れてしまう。けども生きとるからザブッと水を掛かると、水滴が止まるでしょう。
 昨日そんなことを頂きましたね。だからそれがもう当たり前だになった時には、もうおかげは留まらない。けれども私共は生身を持っとるからマンネリに成りがちですけれども、そこを工夫してです。ここだったと気付かせて頂いて、それこそ眠かっても親先生の傍に行ったら目がパチッと開いたと、開く様になったというおかげを頂いた時に、水滴という所謂お恵みを受け止める、一段と高められた信心がそこにまた新たに誕生する訳です。生れて来る訳です。
 それを繰り返し繰り返し、一段一段信心を進めて行く内にです。確かに良いもなければ悪いもない、天地の親神様のお働きの中に起きて来る事、それは地獄の苦しみの様な苦しみであっても、其処とても矢張りおかげだと、神様のお心の中にあるんだ、懐の中にあるんだとお礼が言えれる様な心が生れて来る。そういう信心を限りなく目指して行くと言う事。今日は私は特にみ教えの一番最後のね、良い悪いはないと思えと言う所に焦点をおいて聞いて頂きました。
   どうぞ。